小さなダビデ 2015 8 15

 多くの日本人は、太平洋戦争が終わった年、
つまり、1945年のみ注目しますが、
時計の針を太平洋戦争が始まる前まで戻すと、
つまり、1930年代まで時計の針を戻せば、
日本の戦争は、「解放戦争」だったと言えるでしょう。
その時代は、アジアは、欧米列強の植民地だったのです。
 たとえば、「一度も植民地になったことがない日本」(講談社)という本がありますが、
欧州から見れば、
「日本は、アジア・アフリカで植民地にならなかった稀有な国だ」と見えるのです。
 裏を返せば、日本以外の国は、すべて、欧米の植民地だったのです。
欧米の列強によって、アジア諸国は、次々と植民地になっていったのです。
 今では、「超大国の仲間入り」とされるインドですら、英国の植民地でした。
中国は、もっと悲惨な状態でした。
 「東洋の獅子」と言われた中国(清帝国)は、
1840年に始まったアヘン戦争に敗れると、
欧州の列強から「実は、弱い国だ」と見なされ、
中国の半植民地化が加速したのです。
 この戦争の結果は、当時の日本にとっても、衝撃的でした。
日本にとっては、東洋の超大国である清帝国が敗れて、
植民地化されていく様子は、あまりにも衝撃的だったのです。
 このままでは、日本も欧州列強の植民地になってしまうという危機感が、
日本の近代化を加速させたのです。
 日本にとって、脅威は、欧州だけでなく、
ロシアも常に脅威の存在でした。
 ロシアの南下政策、
つまり、ロシアが朝鮮半島を南下して、
日本に攻め込んでくるのではないかという恐怖感が、いつもあって、
そういう恐怖感が、日本人の頭から離れることはなかったのです。
 当時は、このような国際情勢だったからこそ、
欧州から見れば、
「日本は、アジア・アフリカで植民地にならなかった稀有な国だ」と見えるのです。
正に、日本が植民地にならなかったのは、奇跡的でした。
 日本は、植民地になるどころか、
アジアにおいて、欧州列強との戦いに勝利していったのです。
 このような日本の歴史を見るたびに、
私は、旧約聖書の「サムエル記 上」を思い出します。
 勝機ゼロに見えた羊飼いの少年ダビデが、
巨人ゴリアトに勝ってしまうのです。

アヘン戦争 Opium War 2004 4 17
 1840年から始まった「アヘン戦争」の歴史的背景を点検しましょう。
これは、イギリスと中国の貿易問題が原因です。
 当時、イギリスは、中国の茶を輸入し、
その代金を、銀で支払っていました。
 しかし、茶の輸入量が増加すると、
銀による支払いも増加し、イギリスは苦しい立場となりました。
 そこで、イギリスは、インドで、アヘンを製造させ、
そのアヘンを、茶の購入代金としたのです。
つまり、「銀での支払い」を「アヘンでの支払い」に変えたのです。
 これにより、中国社会は、アヘン吸飲というものが、
社会全体に広がり、大きな社会問題となりました。
当時の中国政府は、アヘンを禁止しました。
 しかし、当時のイギリスにとっては、
アヘンが、重要な「貿易通貨」となっていましたので、
このアヘン禁止は、大きな痛手だったのです。
 こうして、これが、アヘン戦争へと発展していくのです。
この戦争は、「自由貿易の実現」という大義名分がありましたが、
現実は、アヘンという麻薬ビジネスが生み出す、
巨額の利益を確保するための戦争だったのです。
 そのため、この戦争は、イギリス国内では、「不正義の戦争」と呼ばれました。
イギリス国内でも、こうした戦争に対して、強い反対論があったのです。
しかし、資本家や大商人の強い意向により、この戦争は断行されたのです。
 このアヘン戦争で負けた中国は、
外国勢力への抵抗と、伝統社会からの脱皮という苦難の道を歩くことになり、
あまりに大きな「痛み」となりましたが、
これが、中国近代化の出発点にもなりました。




































































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